東宝映画を中心に、映画のほか特撮ドラマやテーマパーク映像でも活躍した日本を代表する特技監督、中野昭慶氏が描いた貴重な絵コンテ資料の数々が、当センターとも関係が深い特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)に寄せられました。
これらの資料は、当センターが参画・協力する「日本特撮アーカイブ」の2023年度の活動で、調査と整理、保存(デジタルデータ化)が実施されました。今回は本事業の概要と成果についてご報告します。
4. 有識者からのコメント
樋口 真嗣 氏 (監督・特技監督)
よほど特殊なことでもない限り、特撮でつくり出される“画”にはセリフがない。
その“画”の中で言葉を発するものがいないからだ。
しかし、だからこそ物言わぬ存在に生命を吹き込ませなければならないのだ。
——— 敵の攻撃を受け、黒煙を吹きながら青息吐息で飛び続ける飛行機。
——— 突如発生した大地震に支えを失い、堅牢な骨格を捻りながら川面に落ちていく鉄橋。
——— 宇宙人の侵略兵器の容赦ない攻撃に晒されて木っ端微塵に吹き飛び、宙を舞う瓦礫と化す都会のビル街。
——— 人跡未踏の深海。光さえ届かぬ暗渠で遭遇する異常事態。その暴流から逃れることしかできない豆粒のような潜水艇。
——— 敗北を目指して転落する国家の名を冠した巨大な艦が勝てる見込みのない航海に旅立つ。容赦ない敵の攻撃を受けてのたうつように巨大な船体を捩らせ、紅蓮の炎に包まれていく。
——— 地球という巨大な生き物の粋狂により引き裂かれ、海底へと没していく祖国の運命を神々のように衛星軌道上から無慈悲に見下ろす視点。
言葉なき映像、その連環のみで雄弁に語りアリアを歌い上げる黙示録の語り部こそが特撮監督としての真骨頂であり、その一端が絵コンテに添えられた短い言葉である。そこに込められた想いが単なる特撮を演出へと深化させてきたのだ。
刮目せよ。
■中野 昭慶(なかの てるよし) 助監督、のちに特殊技術・特技監督■
1935年(昭和10年)満州生まれ。1959年(昭和34年)日本大学を卒業し東宝入社。助監督部で松林宗恵組、稲垣浩組、岡本喜八組、黒澤明組などを経験したのち、1961年『妖星ゴラス』より特撮専属助監督となり円谷英二監督を最後まで支え続ける。1969年『クレージーの大爆発』で「特殊技術」初クレジット、以降『ゴジラ対ヘドラ』(1971)、『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972)、『ゴジラ対メガロ』(1973)でも特殊技術を務める。円谷英二監督没後3年目の1973年(昭和48年)『日本沈没』で3代目の「特技監督」を襲名した。38歳で東宝特撮の命運をかける重責を負ったが、『日本沈没』は記録的な大ヒットとなり、特撮の功績を会社から認められる。その後も1974年の『ゴジラ対メカゴジラ』、『ノストラダムスの大予言』、『エスパイ』、1975年『東京湾炎上』、『メカゴジラの逆襲』、1976年『続・人間革命』、1977年『惑星大戦争』、1978年『火の鳥』、1980年『地震列島』、『二百三高地』(東映)、1981年『連合艦隊』、1984年『ゴジラ』、1987年『竹取物語』、『首都消失』(大映)など、1970年代から1980年代の東宝大作路線を一身に背負う活躍をした。中野は爆発やスモークなど特殊効果に対するこだわりで独自の映像美学を演出した。1985年には北朝鮮製作の怪獣映画『プルガサリ』にも特技監督として渡航し参加した。テレビでは『流星人間ゾーン』(1973)、『西遊記』(1978)、『西遊記Ⅱ』(1979)等に参加した。2022年86歳で永眠。